Outlook
On Running ランニングの合間に
パンデミックの影響でメンタルや健康に不調をきたすことが多いと聞くが、幸運なことに、そうした悪いコンディションとは無縁のままでいられている。それどころか、体力もついてきて毎晩ぐっすり寝ている。食生活や会社が提供してくれるさまざまなWFH支援のおかげもあるのだろう。でも最も確実な理由は、運動不足解消のために始めたランニングにすっかり没頭していることだ。習慣の域を超えて、生きがいにすらなりつつある。
定期的に運動するのは実に約20年ぶりで、ランニングを始めたばかりのころは3kmでへばっていたものだ。近所の公園では、小さな少年や高齢者の方に何度も抜かれた。いまは徐々にペース配分と走り方を覚え、10kmを週3回走っている。観葉植物への水やりやゴミ出しと同じように、必要欠くべからざるものとして毎週の習慣に刻み込まれている。
ちょっと話が逸れるけれど、国際政治学者の藤原帰一さんの「映画を見る合間に、国際政治を勉強しています」というTwitterプロフィールがとても好きだ。東京大学教授まで務めるほどの自身のプロフェッショナル性を「映画好きである自分」が凌駕していることがセンスよく表現されている。そうした観点では、村上春樹さんの『走ることについて語る時に僕の語ること』に記されている、墓碑銘に「作家(そしてランナー)」や「少なくとも最後まで歩かなかった」と刻んでもらいたい、という一文も同じような話かもしれない。流石に墓碑銘に刻むほどのめり込むかはわからないが、ランニングには「ひょっとしたら自分もそうなるのでは」と思わせるほどの底無しの魅力がある。少なくとも、来年あたりには「ランニングの合間にLobsterrというメディアをやっています」などと言っているかもしれない。
ランニングの効用は数え切れないが、最も重要なのは精神性の回復だ。週末も『Lobsterr Letter』のエッセイを書いたり文章を読んだりしていると生活のなかで考えることの比率が高まり、純粋に何かを「感じる」時間は少なくなる。身体性や感情を無視してしまうことに慣れている自分がいる。ランニングはそうしたものを取り戻すためのリハビリとして機能する。走るごとに回路が生成され、世界を受け止めるための新しい細胞が芽吹く。
最近読み返している『BORN TO RUN 走るために生まれた』には、スポーツ医学や生物学的にいかに人間が長距離を効率よく走るための身体をしているのかが詳述されている。ばねのような脚、ほっそりした上半身、無毛の皮膚、太陽光を貯めにくい直立した姿勢などの人間の身体的特徴は、歩くためでなく(ましてや座ってディスプレイに向かうのではなく)、走るために最適化されているのだという。
先週、ランニングの大先輩たちと語らいながら、新緑が目に眩しい代々木公園を5周した。いつもより少しゆったりしたペースで走りながらかけてもらった「気持ちよければいいんですよ」という一言が忘れられない。「ランニングは身体や精神を解放するため」と言いながらも、週に3回という自分なりの決まりや、キロあたりのペース配分に気を遣うあまり、身体性を思考の配下に置いていた自分に気づく。走るときくらい良し悪しや規範、記録などをすべて脇に置き、季節に応じて空気や景色、脚にかかる心地よい負荷に耳を傾けていたい。──Y.S
『Lobsterr Letter』は、 世界中のメディアから「変化の種」となるようなストーリーをキュレートするウィークリーニュースレター。
コンパクトな文量で、 ロングスパンの視座を。 皮肉や批判よりも、 分析と考察を。 ファストフードのようなニュースではなく、 心と頭の栄養となるようなインサイトを。
目まぐるしく進む社会のなかで、 立ち止まり、 深呼吸をして、 考えるためのきっかけを届けている。
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